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東葛高新聞でひもとく東葛の歴史

自主自律の萌芽は何処に

1947年(昭和22年)に「東葛高新聞」が創刊されました。以来七十数年にわたり発行されてきたこの新聞は、当時の東葛を知ることができる貴重な資料の一つとなっています。発行元である本校新聞部は、保管されている東葛高新聞をデジタル化するプロジェクトを始動し、現時点で計400を数える新聞のスキャンを完了しています。
 
さて「東葛高新聞でひもとく東葛の歴史」では、創立100周年に至るまでの本校の歴史を東葛高新聞を軸に紐解いていく記事を連載する予定です。今回はその初回として、「自主自律」の精神が如何に生まれたのかを、創立当初の東葛を見ながら辿っていくことにしましょう。

寺に生まれた東葛

1923年(大正12年)9月1日に発生し、首都圏を襲った関東大震災。旧制東葛飾中学校が設立を認可されたのは、その5ヶ月後にあたる1924年(大正13年)2月9日のことでした。当時、東葛飾地域に学校が不足していたことが理由の一つだと言われています。

長全寺(1923年)

東葛飾中学校は同年4月10日に開校しましたが、初年度はまだ校舎が完成しておらず、一期生は長全寺というお寺で勉学に励んだのです。東葛高新聞30号(1955年11月20日発行)への寄稿で、一期生の一人は次のように当時を振り返ります。

大正12年の関東大震災後間も無く柏に県立中学校が出来ると云うので松戸から近いので此の新しい中学校に入ろうと決心した。然し、当時全々校舎も無ければ先生も居ない、学校の名称も決って居ない始末。吾々としては雲を掴む様な話なので一時は非常に不安を感じた。(中略)校長は新しく築き上げられる校風を常に気にし、又希望に輝いて居た。然し生徒の方は月日がたつにつれだんだん悪戯が始まった。休時間に鐘や木魚をならす者大きな燭台を持ち出す者、ボールが幕を越えて仏壇に飛び込むやら外では石塔にボールを打ち当て、誰が倒すか競争をしている。和尚さんが複雑な顔付で眺めて居る。(中略)此の様な不自由な仮校舎でも不平不満を云う者は誰一人なかった。広大な敷地も準備され一年たてば千葉県で最初の鉄筋校舎が出来上がるので一同希望に燃えて居たからである。(一部を新字体・算用数字に改めました。以下同じ)

最初期の東葛の様子が軽妙な筆致で綴られており大正当時の雰囲気がひしひしと伝わってきますが、それだけではなく、元気溌剌たる彼らの姿にはそこはかとなく今の東葛生に重なるものを感じるのです。

押し殺される主張

翌年の3月24日に、本校舎が落成しました。当時は大正デモクラシーの最高潮に達し、市民が国際平和を希求する風潮がありました。しかし1930年代に入ると、日本国内の軍事色や戦争色が濃厚となり、学生がこれを無視できない状況となっていきました。当時東葛で教えていたある教師は、生徒を「純真で覇気があり道義観念に燃え」ており「不公平とか専制を嫌う」ことが甚だしく、「今日の民主々義に徹した」と評したうえで、この気風が時々表面に現れてはストライキが幾度か実施されたと書いています。本分は勉強でありながらも、社会の一個人として意見を主張した東葛生の気立てがここにあったと思います。
 
さて、教育が中立であるべきというのは正義であるはずですが、当時の教育機関はこの大原則を守ることができず、東葛でも行軍や閲兵などの軍事教育が幾度となく実施されました。そして次第に、生徒が学校に対して何か意見を言うことが不穏当だと思われるようになっていきました。主張が黙殺されるこの風潮に、生徒は耐え忍ぶしかなかったことでしょう。

左:行軍/右:閲兵(いずれも1931年頃)

学徒勤労動員

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まりました。戦況が厳しくなったことで学生の徴兵猶予が次第に狭まり、最終的に19歳で入隊が求められるということになりました。東葛を卒業して間もなく出陣し、帰らぬ人となった卒業生がいることを忘れることはできません。
 
戦況悪化の影響は、学徒勤労動員という形で旧制中等教育学校にも波及しました。1944年の1学期末に動員されたある生徒は、東葛高新聞30号に次のような稿を寄せています。

未知の世界であったが、うえつけられた大東亜共栄圏確立の念に燃え元気に工場の門をくぐったのであった。(中略)当時工場では高空を飛行する為に取り付ける噴射ポンプを作って居り旋盤・グラインダーなど夫々の機械に取り組む作業が始められた。学徒動員と名はよかったが、実は油のついた作業服を着、職工同様であった。最初は馴れぬ為非常に疲れを覚えた。特に終日立って居た経験がなく暫くの間足が疲かれたのを記憶している。(中略)秋のうちはまだ良かったが、やがて冬を迎え特に夜勤は容易でなかった。如何に寒くとも休憩時以外暖をとることは許されず、といって一晩に背板薪二把位しか配給なかった。機械の上についている電燈でぬくみをとっていた。

そして最後に、「今後は如何なる理由があろうとも学生が他に利用され教育の機会を失することなきを希う者である」と書いています。教育の機会を剥奪され、厳しい環境下で労働をしなければならないという悲痛な現実がそこにはありました。

おわりに

正門(1931年頃)

これまでに見たように、自主自律の萌芽は戦争の惨禍によって踏みにじられました。しかし、気骨ある東葛生の精神がここで消え失せたわけではないというのは、東葛のその後を見れば火を見るよりも明らかです。最後に、東葛高新聞30号から16期生の次の言葉を引用して筆を置くことにします。

学力は低下してもゲートルをつけて挙手の敬礼をしても、人間にとって一番大切な素朴なヒューマニズムと最小限の抵抗の精神は、強制された形式の底に存在していた。それが我々の中学生活の真実であった。卒業して11年、振り返ってみていかなる教育が真の教育であったかいかなる先生が真の先生であったかがうなづける。そしてまた軍国主義的教育がいかに多くのものを我々から奪ったかを!それにもまして、青春の生命はそのような圧迫によっては決して死滅しないものであることを!

画像出典

 長全寺:東葛高新聞30号(1955年11月20日)

 行軍、閲兵、正門:千葉縣立東葛飾中學校 第三囬卒業生寫眞帖(1931年3月)

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